5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。
おしりかじり虫
お馬鹿な息子
キョロちゃん
ゴールド会員
サンタの
すてきな友達
たんたんたぬき
どんぶりトリオ
ぱちんこは私の癒し
ひとり暮らしトライ
ブロッコリー
まちぶせコンピュータ科学
モン吉コンピュータ人類
れんこんまん
安津美の日記
黄金のトランク
花のメルヘン
環境生活情報
休日の昼下がり
空の案内人
この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。
そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から6世紀前半にかけて王統が弱体化し、数回断絶したとの説も有力である(王朝交替説)。中国王朝との通交も途絶した。